梶原景時館跡
The site of Kajiwara Kagetoki castle
梶原景時は治承4年(1180)8月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救いました。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献しました。一宮を所領としており、この地に館を構えたとされています。図に示すとおり館の規模は広大だったとの説もあり、現在も当時のなごりを留めていると伝えられています。天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。
景時は和歌もたしなみ文武両道に秀でた武将でした。
頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199)11月、鎌倉を追放され、一族郎党を率いて一宮館に引き揚げました。その後、景時は再起を期し、上洛するため、翌正治2年(1200)正月20日午前2時頃ひそかに館を出発しました。一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最後を遂げました。
館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。
平成21年3月
寒川町教育委員会
景時は和歌もたしなみ文武両道に秀でた武将でした。
頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199)11月、鎌倉を追放され、一族郎党を率いて一宮館に引き揚げました。その後、景時は再起を期し、上洛するため、翌正治2年(1200)正月20日午前2時頃ひそかに館を出発しました。一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最後を遂げました。
館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。
平成21年3月
寒川町教育委員会
角落(かくお)とし
両側の堰柱(せきばしら)の溝に、角材や板を落とし入れ、水流の調整をしたり、堰止めなどする装置。
西側の産業道路沿いにあった相模川防水堤に設けら増水時には板を落とし、土嚢(どのう)などで補強して洪水から西町を守った。
平成26年3月
両側の堰柱(せきばしら)の溝に、角材や板を落とし入れ、水流の調整をしたり、堰止めなどする装置。
西側の産業道路沿いにあった相模川防水堤に設けら増水時には板を落とし、土嚢(どのう)などで補強して洪水から西町を守った。
平成26年3月
梶原景時と一宮館址
梶原平三景時(生年不明~1200)は「鎌倉本體の武士」といわれ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の基礎を築いた文武ともに優れた武士です。
梶原氏は、桓武(かんむ)平氏の流れをくむ鎌倉党の一族とされ、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいました。
治承4年(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、8月24日、石橋山(小田原市)の合戦で大敗して椙山(すぎやま)に逃れ、「鵐(しとど)の岩屋」(湯河原町・真鶴町の両説あり)に潜んでいました。大庭景親率いる平家方の一員として参陣していた梶原景時は、頼朝を発見したものの討たずに救いました。これが景時と頼朝の出会いでした。
翌年1月景時は、関東を平定し鎌倉に入った頼朝に土肥実平の仲介により面謁し、「言語を巧みにする」と高く評価され、家臣として認知されました。以来、源平合戦で多くの功績をあげたほか、頼朝の片腕として侍所所司(さむらいどころしょし)をはじめさまざまな重職に携わりました。
頼朝の死後、正治元年(1199)10月、結城朝光(ゆうきともみつ)謀反の疑いを将軍頼家に讒言(ざんげん)したとの理由で御家人66名の連署をもって弾劾され、弁明の機も得られぬまま一宮に下向。再度鎌倉に戻るものの、12月鎌倉追放が正式に決まり、鎌倉の館は取り壊されました。
正治2年(1200)1月20日、景時とその一族は、朝廷や西国武士団の支援を軸に再起を図ろうと、一宮館をあとに京都へ向け出立します。その途中、駿河国狐ヶ崎(静岡市清水区)で在地の武士吉川小次郎らに迎え討たれ、交戦の末、梶原山にて最期を遂げました。
幕府内の主導権を手中にしたい北条氏と、頼朝の側近として職務に忠実すぎた景時を快く思わなかった御家人たちとの思惑が一致したことが背景にあったと言われています。
梶原景時公没後800年記念事業
平成12年7月 寒川町梶原公顕彰会
平成27年改修 寒川町教育委員会
梶原平三景時(生年不明~1200)は「鎌倉本體の武士」といわれ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の基礎を築いた文武ともに優れた武士です。
梶原氏は、桓武(かんむ)平氏の流れをくむ鎌倉党の一族とされ、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいました。
治承4年(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、8月24日、石橋山(小田原市)の合戦で大敗して椙山(すぎやま)に逃れ、「鵐(しとど)の岩屋」(湯河原町・真鶴町の両説あり)に潜んでいました。大庭景親率いる平家方の一員として参陣していた梶原景時は、頼朝を発見したものの討たずに救いました。これが景時と頼朝の出会いでした。
翌年1月景時は、関東を平定し鎌倉に入った頼朝に土肥実平の仲介により面謁し、「言語を巧みにする」と高く評価され、家臣として認知されました。以来、源平合戦で多くの功績をあげたほか、頼朝の片腕として侍所所司(さむらいどころしょし)をはじめさまざまな重職に携わりました。
頼朝の死後、正治元年(1199)10月、結城朝光(ゆうきともみつ)謀反の疑いを将軍頼家に讒言(ざんげん)したとの理由で御家人66名の連署をもって弾劾され、弁明の機も得られぬまま一宮に下向。再度鎌倉に戻るものの、12月鎌倉追放が正式に決まり、鎌倉の館は取り壊されました。
正治2年(1200)1月20日、景時とその一族は、朝廷や西国武士団の支援を軸に再起を図ろうと、一宮館をあとに京都へ向け出立します。その途中、駿河国狐ヶ崎(静岡市清水区)で在地の武士吉川小次郎らに迎え討たれ、交戦の末、梶原山にて最期を遂げました。
幕府内の主導権を手中にしたい北条氏と、頼朝の側近として職務に忠実すぎた景時を快く思わなかった御家人たちとの思惑が一致したことが背景にあったと言われています。
梶原景時公没後800年記念事業
平成12年7月 寒川町梶原公顕彰会
平成27年改修 寒川町教育委員会
[参考]
梶原景時と寒川町一之宮 / SAMUKAWA-Machi Guide
https://samkajyoho.exblog.jp/14947753/
梶原氏の盛衰と復活 : 水軍史構成のために / 佐藤 和夫 / 弘前大学学術情報リポジトリ
https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1140
梶原景時と寒川町一之宮 / SAMUKAWA-Machi Guide
https://samkajyoho.exblog.jp/14947753/
梶原氏の盛衰と復活 : 水軍史構成のために / 佐藤 和夫 / 弘前大学学術情報リポジトリ
https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1140